世界毎日休暇仮説
みなさんは世界五分前仮説というのをご存知だろうか。簡単に言うと「世界が五分前に今の状態をもってつくりだされた」なる説を論理的に否定できないという考えだ。
詳しくはwikipediaを見てもらえばいい。
この説は思考実験の有名なものの一つなのだが、これは「休み」についても適用できる。
10連休が終わるからって頭がおかしくなったわけじゃない。とりあえず聞いてほしい。
まず、そもそも休みとは何か。これの定義は様々で、例えば仕事の無い日だとか学校が無い日だとか、あるいはカレンダーに赤色で書いてある日などがある。
たぶん立場が違えば休みの定義も変わってくる。主婦にとっては家族が休みで一日中家にいる日は繁忙期になるだろうし、部活で忙しい学生やブラック企業に勤める人にとってはカレンダーの色なんて関係無いのだろう。
みなさんは10連休どう過ごしたのだろうか。僕はなんだかんだで幸せな3連休を過ごした。
旅行に行った人もいただろうし、道頓堀や渋谷で改元に乗じて騒いでた人もいただろう。0連休の人達は御愁傷様。
一方でtwitterなんかを見てると「暇すぎて死にそう」「見たかった映画全部消化してやることなくなった」「もはや引きニート」「6連休でいいわ」などといった連休飽きた的なツイートをちらほら見かけた。
どうやら10日も休みがあると人はやることを見失うらしい。
ならば1年365日毎日休みだったとしたら、働きだす人が現れてしまってもなんら不自然ではない。
そう、人間は暇すぎるが故に働きだしてしまったのだ。
元来世界は毎日休みだった。まさにエデンの園のような世界だったのだ。最初の方はそれこそ遊んだり旅行してみたりと余暇を満喫したことでしょう。
1ヵ月ぐらいはそれでもよかったはずだ。
しかしながら2ヵ月目にはいると徐々に飽きてくる。これは予期せぬバグだった。
そしてこのバグが広がることでとんでもイベント「労働」なるものが生まれる。
「労働」は休みに飽きた男が突然地面を耕し出したところからはじまった。そう、暇で暇で仕方なかったからとりあえず地面を耕してしまったのだ。
耕された地面にこれまた暇人がやってきて、小麦を植えた。別にわざわざ育てなくたっていい。この世界には十分な食糧があるんだから。でも暇だったから植えてみようと思ってしまった。
すると暇だから育てようと言う人が出てくる。
暇の連鎖により小麦が育ったのだ。
人々は新たな暇つぶしを手に入れてしまった。そう、「労働」という。
この暇つぶしは瞬く間に拡がっていった。
「労働」をする者が増えると次第に人との交流も増える。
すなわち職場恋愛というものが生まれる。
すると出会いを求めて「労働」に参戦するものも現れる。
恋愛の先にはいろいろあるが最終的に結婚して子供ができたりする。
「労働」によって生まれた子供、それはもちろんのように「労働」を教えられ、そのうちに参戦するのだ。
結果として「労働」はとんでもない人口を手に入れる。「労働」はいつの間にか休日を置換するものへと変化していき、「労働」が当たり前の世界が出来上がったのだ。
とはいえ、この時点では労働というのは大人のものであり、子供はまだ毎日休みだった。
鬼ごっこやらかくれんぼやらしていたらよかったはずだ。
しかしながら大人は子供に労働について教えていかなければならない。あるいは労働に必要な言葉だったり算数だったり。
最初は親が子供に直接教えていたのかもしれない。でも、親には労働がある。教えながら働くのはなかなか大変だ。
すると村の長老みたいな人が子供を集めて教えてやろうみたいな話になってくるわけ。
そんな感じで学校みたいなのができた。
すると子供はそこに通うことになる。親も「どうせ毎日休みなんだから学校でもいきなさい」みたいな風に言われていたにちがいない。なんなら子供達も新しいことを探していただろうから喜んで行ったことだろう。
こうして子供は新しい暇つぶし、学校を手に入れた。
学校に行った子供が大人になってまた子供ができたとすれば、その子供が学校に行くことに疑問を感じることはなかっただろう。
こうして、学校に行くのが当たり前となり休みと置き換えられた。
労働や学校が当たり前となり、休みがおいやられた世界。それが今我々が生きている世界だ。
だから、本来世界は毎日休みなのだ。毎日休みであるべきなのだ。10連休なんてみみっちいことを言っている必要はない。
さあ、いまこそ休みを取り戻そう!
こんなこと書くと怪しい宗教の勧誘みたいになってしまった。でも、絶対に毎日休みであることを否定することはできない。休みの日に勝手にいろいろしてるだけであって労働も学校も本質として連休中の旅行と変わらないのだ。
10連休はおわらない。明日からも休みだ。暇つぶしに勉強してるだけ。そう考えてもあんまり幸せになれないことは触れないでいただきたい。